主要万葉歌人について



[第一期]……この時期は、舒明天皇の元年から壬申の乱 までの四十数年
           間で、大化改新を中心とする。


額田王

 額田王は、大海人皇子(オオアマノミコ)の妃として十市皇女(トオチノヒメミコ)を生んでいる。 また額田王は、「御言持ち歌人」(代作歌人)として天皇に成り代わって歌を詠むことが許されていた 歌人で、古代和歌史上きわめて特殊な働きをした歌人として位置づけられる。
 そして、この時期の歌の特徴を第二期以後の歌と比較すれば、集団性・意欲性・呪的性格・自然との 融即性・歌謡や民謡とのつながりの深さなどを列挙することができる。このうち、集団性と意欲性 は、芸術的価値を意図とするいわゆる文学意識より以前の、限界文芸的性格を言いうるもので、初期万葉の 歌の多くが集団的行事、すなわち宮廷儀礼や土俗と結びついて歌われたことと関連する。


[第二期]……この時期は、持統・文武の藤原朝を経て、 元明天皇の奈良
           遷都に至る約四十年間である。この時代は、<大宝律令>
           の制定による<古代律令国家>の完成期である。


柿本人麻呂

 柿本人麻呂は、六位以下の低い身分で、生没年も伝わっていない。しかし彼の作品は、長短合わせて 九十首、『人麿歌集』所出の歌が四百首近くもある。
 その歌風としては、抒情歌・叙景歌にすぐれ、<相聞>や<羇旅>の歌に も名作が多い。また、短歌・施頭歌いずれの歌も巧みに歌いこなすが、その特色は長歌にあった。この 長歌は、人生の哀歓を強く感じて、格調高く、雄大にまとめあげている。


[第三期]……この時期は、奈良朝の前半で、聖武天皇の (七三三)頃ま
           での約二十年間である。この時代は、壮麗な新都の整備と
           貨幣経済の確立などに象徴されるように国力の充実期であ
           る。


山部赤人

 山部赤人は人麿と並んで古来「山柿」といわれ<万葉歌人の双璧>とされた。赤人もやはり人麿と同じように 身分も低く、その経歴もほとんど分かっていない。
 赤人の歌風としては、<自然観照>を深め、自然美を追求して、日本詩歌に 叙景の歌の伝統を確立した。人麿を「人生詩人」とすれば、赤人は「自然詩人」である。けれどもこの 「自然詩人」という見方は、赤人の一面にすぎず、他に赤人は、小さな植物や小さな動物にもやさしい まなざしを注いだ歌を残している。つまり赤人は、巨視的な目と微視的な目の双方を合わせ持った歌人と 言うことができるであろう。


山上憶良

 山上憶良は七〇一年、遣唐小録として入唐、帰国して従五位下となり、また筑前守にもなった。このような 経歴で広い学識と儒教思想を持った憶良は、生活苦や社会苦を歌い、万葉集中に独自の境地を開いている。
 また、憶良の歌では、「子等を思ふ歌」が有名である。血の通った柔らかな生身の存在である子供の尊さ を歌ったものである。このような歌を歌った背景として、憶良の頭には自分に愛情を注いでくれた父母の 面影が思い浮かんでいたはずである。それは、「或情を反(カヘ)さしむる歌」(父母の尊さ、妻子のいとおしさ とその恩愛の絆の深さを説く)・「子等を思ふ歌」・「世間の住(トド)みかたきことを哀しぶる歌」という、 古代には珍しい三部作の中で、「或情を反(カヘ)さしむる歌」の後を受けて「子等を思ふ歌」が存在している ことからも分かる。


大伴旅人

 大伴旅人は、神代以来の名家に生まれ、七二五年、六二歳で大宰帥となり九州に下った。そして、旅人の 作歌時代はほとんど晩年に近い太宰府時代であった。
 旅人の歌風としては、内容や形式から三分類に分けて見ることができる。
   @公的な行事などに詠まれたもので、個人の内面的な抒情という要素の
     比較的乏しい作品群。
   A中国文学の影響を深く受け、漢文序を付し、あるいは特殊な構成連作
     をするなど創作意識の濃厚な作品群。
   B亡妻思慕あるいは望郷の念を素直に歌った作品群で、私的な叙情性
     の最も濃いもの
である。


高橋虫麻呂

 高橋虫麻呂は、万葉以外には全く名の見えぬ人で、歌数も少なく、無論伝記も分からない。
 虫麻呂の歌には、伝説に取材した歌が多く、伝説歌人として位置づけられている。 伝説歌は、虫麻呂の前にも後にも作られたが、その豊かな想像力と写生の力量を駆使した表現の生彩、 人生的な主題の明快さなど、虫麻呂の独自性は際だったものがある。


[第四期]……この時期は奈良朝の中期で、七三三年頃から 万葉最後の歌
           の作られた七五九年までの約二十年あまりである。


大伴家持

 大伴家持は、大伴旅人の子として生まれ、また太宰府で憶良の影響を受けている。
 その歌風としては、全般にわたって先行作品の影響が著しく、そのために模倣癖をあげつらう批評もある。 しかしながら、その中から家持独自の歌風が樹立されていったことを重視しなければならない。
 総じて作品全体は、「情(ココロ)いぶせし」の範疇に属するものと 「物(情)悲し」の範疇に属するものに分けられる。そして両者を貫流する ものは「移ろひ」の観念であり、家持文学の基幹はこの構造に求められる。
 家持の作品には、外界への興味に胚胎する作品や、武人家の抒持に出来する作品もなくはないが、そうした ものを縁辺に置き、つまり家持は外象を作歌とすることを第一義としたのではなく、 心情の世界を独自に描き出しているのである。これは、従前の歌人たちが、かつて知らなかったところ のものであり、家持をもってはじめて開拓された日本詩歌の領域であった。