歌壇の争い



歌学・歌道をもって家業とし、それによって朝廷に仕えた家は、藤原俊成・定家・為家と続き、以後も 長く歌界に君臨した御子左家である。そして定家は為家に多大な期待をし、 為家もそれに応え、定家の没後、歌壇の総帥として君臨した。
     
     
しかしその頃、定家の門下である六条知家・葉室光俊らが、為家の歌風・歌論 に反発した。これを反御子左家という。
     
この争いは為家・光俊の亡くなるまで続いたが、反御子左家の壊滅後は、御子左家の歌壇制覇は確立した。
     
その後今度は、御子左家の内部が分裂した。つまり為家の子、為氏二条家) と為教京極家)に分かれたのである。
     
さらに阿仏の子である為相冷泉家を立てた。
     
そして為教ないしその子為兼は、阿仏ないし為相に接近するが、両家は完全には一体化しないという形で、 三家が分裂・対抗することになったのである。
     
この対立は、為兼の没によって京極家が絶えた(家は絶えても派は残った)後も、二条・京極両派もしくは、 二条・冷泉両家の対抗という形で、南北朝の末期頃まで続いた。