八代集について
(1)古今和歌集
勅撰和歌集創始者たちの抱負と意気との理論は、中国詩論と詩集、先行の我が国漢詩文集ないし詩論
からの影響を多分に受けてはいるものの、国風化への努力は鮮明なものである。
その中で成立した『古今和歌集』は、常に漢詩を対象にし、漢詩をも包含した当時の詩文学世界に、如何なる
和歌の地歩を占めるかに思いがいたされていたと見るべきである。それ故、国風化をめざすことによって
おこる緊張からくる固さ、形式化への傾斜が強められていたことは当時としては
やむなき現実であった。
また心を詞とを和歌の不可欠的二要素として認めながらも、どちらかと言えば詞の
技巧に重点を置いたことは、中国詩文・詩論からの脱却の未熟さによるもので、それは勅撰和歌集
創始期に一つの運命であったと見るべきであろう。
(2)後撰和歌集
『古今集』に続いた『後撰和歌集』は、和歌所の一つの仕事として『万葉集』の訓点作業とともに
行われた。『万葉集』の訓点研究作業に従事する同一人によって『後撰集』の編纂が実行されたという点
で、編纂のありかた自体にまず特色がある。つまり『後撰集』の編纂当事者たちは、先行の『古今集』ば
かりを対象とせず、『万葉集』をも十分意識しながら『後撰集』に立ち向かった
ということになる。
『古今集』と『後撰集』を比較した場合、『後撰集』には序文がなく、部立内部が未整理で雑然とし、
重出歌が多く、四季の部立内に恋歌が混入し、未定稿的相貌を呈し、『古今集』のごとき格式ぶらず平俗的
で、詞書が長く説明的で物語発生期の風潮に足並みを揃えている。このことを『古今集』からのみ観察し、
如何にも杜撰な編集であるかのような錯覚に陥ることがある。しかしながら、『万葉集』との比較において
考え直してみれば、序文の有無も、部立内の組織が『古今集』と様相を異にすることも、さして気にならなく
なる。つまり、『古今集』で非難した恋歌の多数採用などは、『万葉集』の影響の結果『古今集』を批判
したものと見られ、『古今集』への抵抗と見られるのである。
(3)拾遺和歌集
『拾遺和歌集』の撰集においては、『万葉集』はすでに霞の彼方に追いやられ、目に映るものは『古今集』
・『後撰集』の両集であった。いや、それらの程遠い勅撰和歌集よりも、間近にあったものは
『拾遺抄』であった。
『拾遺集』の撰者は、藤原公任とも花山院ともいわれるが、公任がこの時代の歌壇の権威であり、『拾遺集』
の重要作者である点には狂いはない。つまりこの集の性格を、公任的歌風による統一
だと見るのは妥当であろう。
『拾遺集』の特質としては、どちらかと言えば『古今集』と『後撰集』の長所を融合しつつ、その間に、
『拾遺集』的特色を創造しようと試みたものと考えられる。『古今集』的歌風は、『後撰集』のみでは定着
されず、『拾遺集』の理解と抱擁によってその完成を見たものと思われる。
(4)後拾遺和歌集
『後拾遺和歌集』編集の方針の一端は序文に書かれていて、『拾遺集』の遺漏を
集載する意志を明らかにしている。また『拾遺集』の選歌は、万葉以降の広い範囲で行われたが、
『後拾遺集』の場合は、「中頃」「天暦の末」に上限を置き、それ以後の秀歌を投載したので、『拾遺集』
より勅撰集形成のための素材は新しくなっている。しかしながら、『後拾遺集』の名称が示すように、
『拾遺集』を多分に意識し、それに従属しながらなおかつその遺漏欠陥を補正する意志のあったことは明らか
である。
『後拾遺集』の性格をとらえるならば、一面『拾遺集』の伝統性を是認しながらも、他面『拾遺集』が欠如
している新しい時代性(女流歌人を多く採用したことなど)を表現しようとした集だと見ることができる。
(5)金葉和歌集
『金葉和歌集』の成立は、今までの勅撰和歌集に例を見ない変革が行われた。下命者は『後拾遺集』と
同じく白河院であっても、撰者が保守派の藤原道俊から革新派の源俊頼に変革し、『古今集』以来の勅撰集
の典型であった二十巻組織が十巻組織に改められ、連歌の部を巻末に新設し、
連歌を和歌の領域内に明瞭に取り入れている。
さらに『金葉集』の編纂過程にも大きな特色がある。『金葉集』は、合計三度の編集が行われている。
・初度本……巻第五までの各巻に貫之の歌を掲載するほか、他の『古
今集』の作者をはじめ、三代集の作者の歌をも収容し
て、作者の点では『後拾遺集』よりも一層の後退を示
している。
・二度本……初度本の固さが取り除かれて、俊頼は自由に自己の抱
懐する革新性を発揮した。
・三奏本……俊頼の革新性は緩和され、初度・二度本の中間的性格
のものとなっている。
(6)詞花和歌集
『詞花和歌集』の撰者藤原顕輔は、俊頼系統の六条家歌風の代表で、俊頼のよき後継者であっただけに、
三奏本の延長として『詞花集』の編纂を思念し、『金葉集』二度本の激動を三奏本とともに沈静させ、温和
な落ち着きのあるものへと導いた。つまり世代は交番し、次の中世期の『千載集』の出現を迎える平安時代
最後の勅撰集としてのこの集の性格は、平安中期以降の和歌史的変動に終止符を打ち、静かにこの時期を収拾
したものとされる。
(7)千載和歌集
源平の動乱、平安時代から鎌倉時代にまたがる間に成立を見た『千載和歌集』は、その内質にこの世紀
の転換が影響を及ぼさざるを得なかった。撰者源俊成とすれば、過ぎ去った王朝時代への回顧と、これから
眼前に展開する新しい時代への展望との二つの立場に立たされたのである。
『千載集』には、王朝的な歌の世界と中世的な精神との抱合が存在した。物語と漢詩の世界を和歌の世界
に持ち込むことは王朝的嗜好であり、悲傷の情感を燻して言外に漂わせるのは無常観に根ざす中世的精神へ
の傾斜である。またその形態も、巻第十九に釈教歌を部立るなど、仏教的な和歌との結合を特別重視したり、
『後拾遺集』以前の二十巻本に復し、部立もほぼ『後拾遺集』に拠り、『古今集』以来の勅撰集の形態に
復している。
(8)新古今和歌集
多くの勅撰和歌集は撰者任せであるが、『新古今集』の場合は、下命者である後鳥羽院
自らがその撰集に参加し、勅撰は直撰の観を呈した。
『新古今集』の特色としては、撰者の筆頭定家が、その著『近代秀歌』で、貫之を評して、「余情妖艶の
体を詠まず」と喝破したその余情・妖艶とがその特色であることは確実であろう。
さらに、親俊成ゆずりの幽玄を加え、『新古今集』独自の性格を築き上げている。
このことは、『古今集』以来の勅撰集で、開拓し前進し続けた和歌の本質と機能とが、その集においてその
頂点に達したことを物語っている。