芭蕉の俳風



 芭蕉俳諧の中心的理念が、「さび」であることは周知の通りである。しかしながら、この「さび」との関連として「滑稽」についても考える必要がある。芭蕉の俳諧は、「さび」と「滑稽」が二つの柱として、重要なものであることは間違いない。

「さび」について

 「さび」という語の本意は、これまでのものがこれまでのものでなくなり、ある別の新しいものに成り代 わるという「変質」を意味する。そしてそれは、必ずしも反対方向へ転化するとは限らないが、とにかく転 移することだけは確かなようである。つまり芭蕉は、衆俗の拒否、伝習の否定が、やがて変質された新しい 価値世界の発見となる秘密を、はっきりと掴んでいたのである。

「滑稽」について

 「滑稽」とは、笑いを伴うものであり、一般的に考えても、人間の行為が笑いの対象になるのは、人間が 人間らしくない行為をしたときである。意志のない存在、自己でない自己に成り代わった情態が笑いの対象 になったのである。
 さらにこの笑いを分析すると、二つの笑いに分けられる。
    @「挨拶の笑い」……微笑を本体とするが、笑うことによって社会生活
                の共同性をお互いに再認し、その共通の意識を通
                じて親和の感情をよびおこすもの。
    A「排斥の笑い」……哄笑を本体とするが、これはある人を排斥するこ
                とによって、それ以外の人が連帯意識を持とうと
                する笑いである。
無心連歌から蕉風以前の俳諧に至る「滑稽」は、機知や諧謔の笑いであり、知的に作り出されたものとして 「排斥の笑い」に近い。つまり伝統的な観念や情緒を否定し、新しい意味に変質することによって生じる笑いでは あるが、そこには伝統的・慣習的なものを排斥しようとする反発のみが強い。
 しかし芭蕉俳諧の笑いにはこのような哄笑は見られない。伝統的なもののうち固定したものや衆俗化した ものへの否定においては、芭蕉の態度も共通するものを持っているが、さらに否定を通じて真に古典的なも のへの呼応が連帯意識として秘匿されている。これはもはや「挨拶の笑い」に見られる微笑に近い性質のも のである。「排斥の笑い」が疎外の心であるとすれば、「挨拶の笑い」は結局は親和の情にひたされたもの といえよう。そして笑いをもたらす滑稽は、やはり対象の否定を通じて再認される対象との親和、そしてそ こに発見される新しい意味世界という点で、一種の変質としての価値転換であることに変わりはない。

両者の共通性

 「さび」と「滑稽」とは、このような意味で共通性を持つものとして蕉風においては享受されていたので はないか。「さび」が単なる閑寂を意味せず、「滑稽」が単なる洒落や機知を意味せずというとき、「さび」 は「滑稽」の内面的な深さに通じ、「滑稽」の微笑はまた「さび」のふかぶかとした哀感を随伴することに もなる。
 このように「さび」と「滑稽」とを同質のものとして受容したところに、換言すれば、二者の溶解を成就 したところに蕉風俳諧確立の根拠があるといえよう。