ペリリュー島

パラオ共和国


「 ペリリュー島 」 ってどこにあるのかな ?  あまり聞かない島名でした。

パラオ共和国は、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国です。
面積は488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ)で、人口は20,920人(2013年)です。
日本は、パラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための 貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを 「内地」 と呼び、 世界で最も親日感情が高い国、といって過言ではありません。
そのパラオ共和国の首都がある バベルダオブ島 から南南西に位置するのが 「 ペリリュー島 」 です。

太平洋戦争中の1944年9月15日から1944年11月25日にかけ、ペリリュー島で行われた日本軍守備隊 とアメリカ軍の陸上戦闘が ” ペリリューの戦い ” と言われています。
その戦況は、日本軍総員 約10,500名 ( 戦死者 10,695名、 捕虜 202名、 最後まで戦って 生き残った者34名 )、 アメリカ軍総員 48,740名 ( 戦死者 1,794名、 戦死者 1,794名 ) であり、兵站にいたっては 比較出来ない状況でした。
また、要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、 戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていきました。

右写真 : ミクロネシア地域と パラオ の 「 ペリリュー島 」 を示す地図です。


◎ 「本当に長いことご苦労さまでした」 ◎

天皇、皇后両陛下は、先の大戦の戦没者慰霊のため4月にパラオ共和国を訪問するのを 前に、 ” ペリリューの戦い ” から生還した元日本兵2人を 3月22日、皇居・御所に招き 激しい戦いの状況などについて話を聞かれました。

招かれたのは元陸軍軍曹の永井敬司さん(93)と元海軍上等水兵の土田喜代一さん(95)。
「徹底抗戦」の命令を受けていた2人は守備隊が昭和19年11月に玉砕し、20年8月に終戦した 後も、洞窟などに潜伏。武装解除に応じたのは22年4月だった。
ご懇談は約45分間に及び、永井さんは海岸での米上陸部隊との攻防を 「 本当の白兵戦でした 」 などと説明。 「 私どもは軍人ですから戦うことは当然のことで す」 と述べたという。
土田さんは、戦友が眠る地へのご訪問に対する感謝を伝えたという。
皇后さまは戦いの様子だけでなく、帰国後の生活や仕事についても詳しく質問し、 「 お体を大事に 」 とねぎらわれたという。

( 以上、S新聞より抜粋しました )

右写真 : ペリリュー島から生還した2人の元日本兵から話を聞かれる天皇、皇后両陛下です。


◎ ペリリューの戦い 生還の元日本兵土田さん講演 ◎

3月21日、靖国神社遊就館で開催された 「 大東亜戦争を語り継ぐ会 」 に参加してきました。
講師の元海軍二等兵曽 土田喜代一さんは、ご高齢にもかかわらず当時の状況を力強い口調で 私たちに伝えると同時に 戦友たちへの感謝の念を述べるなど、心から感銘を受けてまいりました。
土田さんは、翌22日には天皇、皇后両陛下に皇居に招かれご歓談されました。  (上記通り)

パラオ共和国ペリリュー島での激戦から生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)が 壮絶な体験を語った。
米軍は昭和19年9月、島への上陸作戦を開始。 計約5万人の米軍に対し、約1万人の日本軍は大半が 死亡したが、険しい岩山を堀った陣地で74日間の組織戦を展開した。
土田さんは当時24歳の見張り兵で、米艦隊が島を囲んだ光景を 「いよいよ最後の時が来たと玉砕も 覚悟した」 と振り返る。
上陸した米兵を少ない弾薬で1人ずつ倒したが、艦砲射撃などで包囲されていく。 地雷を手に 敵戦車への突撃が計画され、 「行くか行くまいかと迷っていると、1等兵が 『参ります。 両親に死ぬときは潔く死ねと言われました』 と手を挙げた」 。土田さんが銃の扱い方を教えた 若い兵だった。
組織的戦闘は19年11月で終わったが生存者は潜伏。 通信が途絶えた中、20年8月の終戦も知らず、 土田さんを含む34人が22年4月まで抵抗を続けた。
潜伏中は 「あらゆることを語り尽くし、板に彫った将棋が一番の慰めだった」 という。

( 以上、S新聞より抜粋しました )

右写真 : 「 大東亜戦争を語り継ぐ会 」 で講演する生還した元海軍二等兵曹の土田喜代一さん (左)です。


当時島民は 陣地構築に徴用されていましたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者 ともに0名だったそうです。
(以下、 ” ペリリューの戦い ” 資料から抜粋しました。)
ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時 「一緒に戦わせて欲しい」 と日本兵隊長に進言したが 「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」 と激昂され、見せ掛けの友情 だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間、その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。
老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。

こんな逸話のある日本軍が、某国の主張するような事をやっていたのでしょうか ?


トップページに戻ります。