先月のN新聞文化欄に 「 浮遊する芸術 十選 」 が掲載されていました。
第二選は、 「 ジャガールの誕生日 」 で、
この絵画に登場する恋人たちは、
夢のような 愛の力 によって重力を超え、空を飛んでいるように見える。
(解説文より抜粋)
と記述されていました。
愛の力 は、私たちが感ずる宙を舞うような幸福感を現すのでしょうか。
右写真 : ジャガール 「 誕生日 」 (油彩、80.6×99.7) です。
◎ 兼子真一彫刻展 ◎
「 浮遊する芸術 」 が掲載された9月中旬、ボランティアに行く道すがら
” 兼子真一彫刻展 「 浮く身体 」 ” という素晴らしい展覧会パンフに
弾き付けられ、会場に招かれているように感じました。
その彫刻展は、10月2日から14日まで、藤沢市文化財 旧近藤邸 で開催され
ています。
「意識と無意識、現実と非現実等の分離された世界は、同時に混在し
補完しあう関係である」ことをテーマとした作品を発表し続けています。
見えない記憶や無意識を抽象ではなく、見える形に置き換え、目の前に
あるけれども知覚出来ない領域を、見える形へと創作することの挑戦である。
本展では新たな試みである、芯材の針金を彫刻の支えとして残した「浮く身体」
シリーズを含む新作を加え、2010年からの作品、ドローイングを旧近藤邸邸内
とその庭に展示します。 (パンフより抜粋)
パンフの表紙は、展示作品 「 頭の中の人 」 の部分です。
作品は、 H27×W18×D20cm と小さめですが、鋭い眼光を放つ力溢れる人間の頭部
から 二人の人間がより遠くを見つめているような作品でした。
私は、これから、世間の荒波に向かって生きていこうとする青年には、その前途を
見守る優しいご両親が支えているように思えました。 幸せな青年ですね。
右写真 : 兼子真一 「 頭の中の人 」 の部分 です。
◎ 不在の女 ◎
ルーベンスの 「三美神」 を思わせる 「 不在の女 」 は、旧近藤邸の美しい庭に
あって、異様に大きな手と下半身で花壇のような頭部を支えていました。
僕はこの光景を見た。存在しないし、ありえない。けれども、“在ったのかもしれない
光景”実在しない人物像、不可視な映像、うつろう残像と記憶の断片。
「見えるものと見えないものを同一の世界としてとらえる」人の本能は、人である限り、
ある部分では共通する世界があるのではないだろうか。
たくさんの映像と疑問が日々、悩ませる。だから僕は、記憶の残像が消滅する前に、
形にしたくてしようがない。 (パンフより抜粋)
昔、「 かくも長き不在 」 という小説と映画がありました。 記憶を失った夫の帰りを
待つ不幸な妻の物語でした。 何か共通点を感じました。
右写真 : 兼子真一 「 不在の女 」 です。
◎ 浮く不在の女 ◎
藤沢市の国登録文化財である 旧近藤邸 は、大正年間に建てられた 「真の日本住宅」
といわれています。
その美しい庭園に置かれた 「 不在の女 」 を 木製窓枠のガラスごしみた時、
緑の海に浮く女神のように感じました。 ブラボー ! ブラボー !
右写真 : 展示会場の窓越しに見る 「 不在の女 」 です。
◎ 浮く身体 ◎
「 浮く身体 」 展会場で兼子先生は、
礎に立ち、心を自然に宙に巡らせるときに、作品のイメージが湧いてくる。
だから作品は抽象でなく、確実に具象である。
と表現していました。
客観的に物理的に同じものが 精神的にも主観的にも違ったものに診えるのは、
至極当然なことであると思います。 だから、美しいものは、
永遠に美しいものなのです。
右写真 : 兼子真一 「 浮く身体 」 三態 と 壁に架かるドローイング です。
「 KANEKO彫刻工房 」 のサイトです。 どうぞご覧ください。