国道20号を甲府から韮崎方面に北上すると、左手に鳳凰三山 ( 南アルプス ) を、
右手に八ヶ岳の秀麗な山並みを望むことが出来ます。
この八ヶ岳山麓に、欧米建築風のハイカラな 「 津金学校 」 (歴史資料館) が
あります。
また、八ヶ岳を源流とする須玉川に突き出た台地に、 「 古宮城 」 (津金氏
本拠) が存在していたそうです。
そこで、 「 津金学校 」 と 「 津金の由来 」 を取り上げてみました。
◎ 津金学校 ◎
津金学校は、学制発布の翌年の1875年(明治6年)に公立学校として創立され、
日清・日露・太平洋戦争の激動の時代を乗り越えて昭和60年に閉校になりました。
1世紀以上の長い歴史の間、明治・大正・昭和、各時代の変化を受けながら
津金地区 の教育と文化の要として存在しました。
津金学校の木造校舎は擬洋風建築で、当時 近代化を奨励した県令の藤村紫朗の発案で
建築され、 藤村式建築とも呼ばれ、1992年に県文化財に指定されています。
藤村式建築の多くを手掛けた大工棟梁小宮山弥太郎によって建てられた津金学校校舎の
特徴の一つは漆喰塗りの白い壁です。
漆喰とは、石灰に糊を混ぜた壁塗りの材料で、日本では古くは土蔵や城の壁に用いられ
ていました。
今も欧米建築風のハイカラな 「 津金学校 」 (歴史資料館) は、その純白さを
誇るように津金地区のシンボルとして人気を博しています。
右写真 : 明治時代の校舎を復元した 「 津金学校 」 です。
◎ 津金の由来 ◎
その歴史は、室町後期の文明年間(1469〜87年)、常陸の佐竹氏が武田氏を慕って
甲斐に入り、 津金郷 を与えられて姓を 「 津金 」 に改めました。
清水・ 小池・ 高見沢・ 小尾・ 八巻・ 井出・ 河上・ 各氏ら八ヶ岳東南麓地方の
武士団は 「 津金衆 」 と呼ばれ、津金氏はその中心でした。
津金氏は 「 古宮城 」 の北方に詰城として 源太ケ城 を築いて、見張台や烽火台
として利用し、戦国武田時代には、甲斐と信濃の国境警備の役割を担っていました。
武田氏滅亡後の天正壬午の戦い以降は、武川衆とともに徳川家康側に属して活躍
し、その後津金氏は望まれて尾張藩に仕えました。
右写真 : 今も残る 「 古宮城 」 の曲輪跡です。
「 古宮城 」 は、古宮屋敷とも呼ばれ、津金氏の本拠であったところです。
現在も山梨県北杜市須玉町に 「 津金 」 の地名や氏名が多く残っています。
また、名古屋市にも 「 津金 」 に纏わる地名や氏名が残っているようです。